■リオのカーニバルの歴史
カーニバルの起源
カーニバルの語源はラテン語のCaro Vale、もしくはCarnem Levere(いずれも肉を断つという意味)がであると言われ、その根本的な起源は古代ギリシャやローマ人が行っていたディオニソス(バッカス)を祝う祭りであるとされている。それがローマ・カトリックと融合してカーニバルとなったのだ。カトリックの国々では、中世頃から肉食を禁じた四旬節に入る前に酒宴を開いて思いっきり乱痴気騒ぎを行う習慣があったのだ。
ブラジルのカーニバルの起源は、ポルトガルの謝肉祭エントゥルードが入植者によって伝えられたものである。16世紀頃から、カーニバルの時期には仮装を凝らした人々が大声で歌いながら通りを歩いたり、水や粉をかけあったり、卵やオレンジをぶつけ合ったりしていたようだ。リオにおける最初のカーニバルは1641年にポルトガル皇帝ドン・ジョアン4世の王位継承を祝って、当時のリオの総督サルヴァドール・コレーア・ジ・サーが、目抜き通りを大勢の騎馬隊を従えて行進したことに始まる。それ以後、カーニバルは白人中心のものであった。
リオのカーニバルの発展
19世紀に入ると、奴隷から解放された黒人達もカーニバルに参加するようになった。それによって音楽や衣装に趣向が凝らされ、様々な打楽器が使われるようになる。本格的な音楽グループが出てきたのは1855年、60人からなる「カルナヴァル最高首脳会議」という変わった名前のブラスバンドが始まりである。19世紀末になると、「コルダゥン」、「ブロコ(ブロコ・カルナヴァレスコ)」と呼ばれる、組織だったグループが作られる。これらの「コルダゥン」や「ブロコ」に属していたのは、エスタシオやその周辺に住む黒人達であった。
1900年代になると、「コルダゥン」や「ブロコ」に代わって「ハンショ」という大規模なコーラスとバンドを従えた仮装集団が現れた。シルクやベルベットを使用した上品な服装とマルシャ・ハンショという洗練された音楽が注目されるようになるが、世界的な不況の波にさらされて衰退することとなる。「ハンショ」から優秀な人材を引き抜いてグループを強化した事と、新しくサンバがカーニバルの音楽として登場してきたことが大きく影響し、「コルダゥン」や「ブロコ」がまた注目されるようになる。このころから「ブロコ」の体系を整えルールを確立しようとする動きが始まり、1928年に最初のエスコーラ・ジ・サンバ「デイシャ・ファラール」が生まれた。
コンテストとしてのカーニバル
1933年のカーニバルから、リオの大手新聞社グローボがムンド・エスポルチボ社と共にスポンサーとなり、コンテストが行われるようになった。これにより優れた演出や楽曲が作られるようになり音楽的にも発展期を迎える。1935年にはジェトゥリオ・ヴァルガス大統領によってエスコーラの活動へ圧力が取り払われ、また、同年にリオ市長ペドロ・エルネストによって、コンテストに入賞した上位4位に賞金を与えるようにし、出し物のテーマにナショナル・イベントを選ぶようにした。民族的なテーマを持った出し物がカーニバルに登場するようになる。やがて、エスコーラの増加によってパレードを行う場所がなくなり、それによってエスコーラにランクを付け、演じる場所がランクごとに変わるというシステムを採用するようになる。
40年代に入ると政府の民衆政策と観光局の応援を受けて、現在のようなコンテスト形式のサンバ・カーニバルが始まり、1958年にはグループ別に順位を付けるようになる。これによって、下のランクで優勝したエスコーラは上のランクの最下位と入れ替わり、エスコーラの伝統と威信をかけてエスコーラ同士の激しい戦いが始まるようになる。
毎年、カーニバルが行われる通りには多量の観客が収容できる観客席が設けられたが、出費がかさんだことと交通渋滞などの問題が発生したために、1984年にマルケス・デ・サブカイ通りにサンバの花道(パサレーラ・ド・サンバ)が作られた。有名な建築家オスカー・ニーマイヤー(首都ブラジリアの主要な公共建築を行った建築家)が設計したこの道路型スタジアムをカリオカ達は「サンボドロモ」と呼んでいる。この場所でトップレベルのエスコーラの演技を見られるのだ。
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