■カルメン・ミランダとボサノヴァ
ブラジルから世界に羽ばたいたアーティストはたくさんいるが、その中でもカルメン・ミランダの存在は特別なものがある。ブラジルからアメリカに渡って活躍しただけではなく、唯一、アメリカを征服した南アメリカの代表であった。ブロード・ウェイのデビューの後、瞬く間に人気を獲得し、カルメン・ミランダ印の宝石やターバンが売りに出され、雑誌やビルボードには彼女の名前があふれかえった。ハリウッド映画の中でサンバやマルシャを歌った彼女は、戦後のアメリカを象徴するスターの一人として名前が挙げられるであろう。ヴィトゲンシュタインがカルメン・ミランダを気に入っていたということが伝記の中に書かれるほどなのである。また、バイーア娘をイメージした彼女のファッションが、今日でも仮装パーティの定番として残っているのを見ると、彼女が大きな印象を残したことは確かであろう。
しかし、ブラジルにおいては、彼女の存在は微妙な位置にあった。ドリヴァル・カイミ、アリ・バホーゾ、アシス・ヴァレンチ、ラマルチーニョ・バボ、といった作曲家の曲を歌ってはヒットさせ、サンバ界のスターであった彼女が人気の絶頂期にブラジルを去ったことに対して、大きな反感をかったということもあるが、バナナをのせたターバンに象徴される彼女のいでたちや歌うときの大げさなジェスチャー、そして外国人受けするような音楽がブラジル人にとって不愉快な印象を与えたのである。カエターノ・ヴェローゾは、当時のブラジル人にとってカルメン・ミランダは、アメリカを征服したブラジル人であるという誇りをもたらしたが、一方でトロピカルフルーツをのせたターバンという、極端にディフォルメされたブラジル人の象徴は羞恥心をもたらす存在であった。そのため、カルメン・ミランダを日常的に意識しようとしなかったと述べている。カルメン・ミランダは1940年に凱旋帰国した際、リオのナイトクラブ、カッシーノ・ダ・ウルカにおいて聴衆や批評家から冷たい歓迎をうけた。彼女は「皆は私がアメリカナイズされて戻ってきたと言った」というコメントを残し、ホテルにこもって一歩も外に出るこなくアメリカに戻っていった。カルメン・ミランダはブラジルにおいて主要なアーティストではなかった。
カルメン・ミランダの人気は、ブラジルよりもアメリカを中心とした外国で高かった。しかし、ブラジル国内で注目されなかったからと言って、ブラジル音楽にとって全く無意味な存在ではない。ブラジルが輸出した高級品、ボサノヴァがアメリカでヒットした原因となったのは、アストラッド・ジルベルトが歌った「イパネマの娘」であることは知られているが、この曲がシングルカットされアルバムより先に発売されたこと、ひいてはアストラッドの歌を録音して発売した裏には、カルメン・ミランダの影が見え隠れする。アメリカ人はアストラッド・ジルベルトの録音から、クールでモダンなカルメン・ミランダの姿を見いだし、そして、そのイメージがあったからこそ「イパネマの娘」をシングルカットしたのだ。ボサノヴァは新しいカルメン・ミランダ、「イパネマの娘」という存在によってアメリカにおける地位を確立した。当時あったアストラッド・ジルベルト=「イパネマの娘」という思いこみは、新しいカルメン・ミランダを求めるアメリカ人の心理だったのではないだろうか。
ブラジルがカルメン・ミランダの亡霊を払拭するのには長い時間がかかった。スティングが司会をし、アントニオ・カルロス・ジョビンが出演したRain
Forest Foundationのライブの裏話として、まことしやかにこのような噂が流れていました。アントニオ・カルロス・ジョビンが「イパネマの娘」を演奏しているときに、エルトン・ジョンがカルメン・ミランダのような扮装で登場しようと計画していたというのだ。こういった風にカルメン・ミランダは常にブラジル人ミュージシャンについてまわっていた。アントニオ・カルロス・ジョビン、セルジオ・メンデス、アイルト・モレイラ、エルメート・パスコアル、セントラルパークでポール・サイモンと共演したオロドゥン、それ以外の様々なアーティストが活躍することによって、ようやくカルメン・ミランダの、あのバナナがのったターバンのイメージを払拭することに成功した。それほどまで、カルメン・ミランダの存在は大きかった。カルメン・ミランダは、良い意味でも、悪い意味でもブラジルの象徴であった。その象徴はボサノヴァというモダンな音楽に思いも寄らない好影響を与えた。バイーアの娘とイパネマの娘、アメリカの音楽界に名を残した二人だが、どちも偽りの存在だった。カルメン・ミランダはポルトガル出身であり、アストラッド・ジルベルトはバイーア出身である。その二人がブラジルとリオを代表したのは不思議な感じがする。
|